理念と塾風
慶應義塾の目的 福澤諭吉 直筆
創設者・福澤諭吉が慶應義塾に込めた思いは、「慶應義塾の目的」と題された、この短い一文に凝縮されていると言われています。福澤諭吉はその後半生を、一私立学校での次世代の教育に捧げました。それは福澤が、教育こそが社会変革の根幹であると確信したためです。つまりは学問に、人々の意識や習慣を変え、さらにはそれを基に社会を改善する、といった多大な意義を託し、それをまず自らが「先導者」として実践したのです。そして、多くの卒業生が彼に続きました。ですから、近現代の歴史の重大な場面に、常に慶應義塾の卒業生の姿があった事実を、我々は決して偶然とは考えていません。 とりわけ福澤が教育の成果として強調したのが「気品」です。もちろん外見や言葉遣いのことではありません。「我がネーションのデスチニー」を担当する、という強烈な当事者意識から自然とにじみ出る人格の高潔さ、人間の大きさです。社会が直面する課題を進んで発見し、その解決に率先してコミットしてゆく。これが義塾でいう「敢為の精神」(敢えて為す精神)、一般にはフロンティア・スピリットと呼ばれるものであり、その人を「慶應義塾の目的」では「先導者」と呼んで、育てようとしたのです。
義塾
欧米を実地見聞した福澤諭吉が、「彼の共立学校の制」にならって名づけた「義塾」は、英語のpublic schoolの訳語だと言われています。
義という文字は、"社会公共のため""協力して事を行う"との意味を持ちます。したがって「慶應義塾」とは、今の言葉にすれば"慶應公立学校"とでも言ったところです。福澤個人の私塾ではなく、あるいは国家や藩からも独立して、文字どおり公にされた存在として、誰もが参加できる、しかも「財を有するものは財を費やし、学識を有するものは才力を尽くし」て、参加者全員が公共心(public mind)を出しあって、協同で運営されるソサイエティ。こうしたあり方に、福澤は来るべき社会の雛形づくりを意図したのでした。
「社中協力」という、言葉があります。一例を挙げれば、たとえば大学生が小学生のクラブ活動をボタンラリーに指導している、などといった光景が今でもありこちで見られます。こうしたソサイエティの協同運営の精神を、いずれは社会の随所で発揮できる人になってほしい、「義塾」という言葉にこめられた真意は、ここにあります。そのためにも、まずは義塾のパブリックな空気を呼吸して、あたり前のものにすることが、我々の考える大切な教育の一つでもあるのです。
独立自尊
慶應義塾の教育理念は、「独立自尊」、この四文字に要約されます。何者にも屈せず、誰にもおごらず。権威や慣習、常識なるものに囚われず、何事もただ己の良識と信念にのみ照らし合わせて、考え行動しよう。こうした態度を身につけることを、学問する狙いとしています。成熟した個人なくして、成熟した社会はありえない。福澤の言葉では「一身独立して一国独立する」のです。
福澤が西洋にあって日本にはまだないものとしたのが、「有形において数理学(=科学)と、無形において独立心」です。近代国家の成立は、個人の自立と切っても切れない関係にあると福澤は見ました。西洋産の近代化の成果のみと性急に採り入れようとしてもダメだ。「先ず人心を改革して次で政令(制度)に及ぼし、終に有形の物を至るべし」。それを生み出した精神を学ばなければならない。福澤の言う独立とは、文明を生み出す精神を獲得することと同義なのです。たとえば、科学を進歩させた精神、民主主義を育んだ精神、基本的人権を誕生させた精神......。これらを意識的・自覚的に体験することこそが、福澤がスゝメた学問に他なりません。
実学
福澤が提唱した新しい学問は、「実学」と総称されます。これは単なる実用の学、つまり実用知識や実務技術を意味しません。福澤が実学に「サイヤンス」とふりがなをつけたこと、数理、物理、窮理などと言い換えたことからもわかるとおり、数学や物理学といった自然科学に代表される「科学」、つまり"科学する心"を指しています。
それは"学問のための学問"ではありません。ずばり、社会改良・生活改善のための学問、それが実学です。したがって実学は、つねに応用化学たる相貌を備えています。少し具体的な場面を想像してみますと、いつも現実はどうかという条件つきで物事に接する態度、そして「人間万事試験(実験)の世の中」だと心得て、試行錯誤をいとわない姿勢。あるいはまた、「西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑の一点より出ざるものなし」。当然とされてきたことも疑うこと、とりわけ"なぜ"と問う精神。こうした"科学する心"を、あらゆる機会をとらえて試みることが、義塾の一貫教育に徹底した「実学する精神」です。
半学半教
学業の進んだものが他の者を教え、同時にさらに上級の者に学ぶという仕組み。幕末期に福澤諭吉が始めた蘭学塾では、教える者と学ぶ者の分を定めず、それぞれの分野で1日に長のある者が教える、相互に教え合い学び合う仕組み、すなわち「半学半教」の教育形態を実践していた。これは義塾の草創期に師弟共に未知の新分野に挑戦する中ではぐくまれたものだが、後進の世代に対して、学問は究めるほど奥が深く、教員も学生も生涯学び続けなければならないというメッセージともなっている。慶應義塾では、学問に対する志を同じくする者が、ある時は教え、またある時は学び、協同で塾を維持運営するという草創期の精神は今も受け継がれている。
自我作古
「我われより古いにしえを作なす」と訓み、前人未到の新しい分野に挑戦し、たとえ困難や試練が待ち受けていても、それに耐えて開拓に当たるという、勇気と使命感を表した言葉。出典は中国の『宋史』。現在の言葉で平たく言えばチャレンジ精神。徳川三百年の安定の時代に先例漬けにされ、横並び意識や、周囲の様子をうかがって波風を立てないようにする無意識の習慣に対して、目を覚まさせるねらいが込められている。日本の近代化において、鉄道、電気、ガス、水道、保険、新聞などの分野で事業をリードしてきた慶應義塾の卒業生は、身をもってこの言葉を実践した。
社中協力
慶應義塾は学問という志を同じくするものの結社である。そう表されるほど、学生と教員、また卒業生同士のつながりは強い。「社中」とは、学生・教職員、卒業生などのすべての義塾関係者の総称。目的と使命感を共有する者のあつまりという意味がある。義塾の運営を経済的に支えている維持会(明治34(1901)年創設)のほか、卒業生約三十万人が何らかの形で所属する三田会は、職場や地域で組織され、日本だけでなく、世界中で合わせて約860を数える。